2005-05-02

いいわけ



「出ていこうと思って……」
言った途端、彼女の顔がみるみる崩れた。

お互いにけじめをつけた方がいいだの、 いつか一人ぼっちになるなら今から慣れておきたいだの、 新しいパソコンは置いていくから使えばいいだの……。
自分を暗がりに追いやる者の台詞が、ポツリポツリと力なく投げつけられる。

暫くの沈黙を破って彼は言った。
「藤田とキキを知ってる?」

藤田嗣治(1886-1968年)。
フランスではレジオン・ドヌール賞を受けるほど高い評価がありながら日本では受け入れられず、第二次世界大戦中の戦争画をきっかけに、画壇を追われるようにフランスに帰化した日本人画家である。
1920年代、パリで貧乏生活をしながら絵を描き続ける藤田を支えた女性がいた。
「モンパルナスの女王」と呼ばれた伝説のモデル・キキは、金のない藤田からモデル料を取らないばかりか、彼の食費を賄い続けたという。

「キキは、おそらく躯を売ってたと思うよ、彼のために。
 それは、描き続ける彼の才能を信じてたからだろう」

「僕は文章を売ってる。
 自分の生活のためもあるけど、君が作り続けるなら10年かかっても、ここでやればいいと思ってる。
 いつか君が有名になって、こんな汚いところに居られないって言うなら、そのときは出てけばいい」

たらたらと彼女の内から零れ出ていたものが、凍りついて止まった。
落とした視線を、どこを見るでもなく虚ろな一点に注ぎ続ける。

「十年もかからないよ」
弱っても強気な一言が、ようやく口をついて出た。

有名になるかどうかは知らないが、今よりずっとマシなものを作るのに十年もかかりゃしない。 マシになろうとする者に限っての話だが。

くだらない他人の意図にかかって作った傷口を弄くる癖が、また復活したようだ。
わざわざ瘡蓋を剥がして孤独の淵に自分を追いやる。
どうせ孤独なら、思いっきり閉ざして孤独に慣れたほうがいいなんて、下向きに陥った者の言いわけは、いつだってロクなものじゃない。